家康が堺滞在中に本能寺の変に遭遇し、伊賀越えで本拠地の浜松まで難を逃れたが、その際に舟を出して助けたのが佃村の漁師だった。
その恩を忘れていなかった家康が江戸開府に当たって、摂津(大阪府)佃村の漁師を呼び寄せて開拓させたのが、当時隅田川河口の離れ小島だった佃島である。
その際に家康は江戸湾の漁業権を与える一方で、佃島に定住させたことで、佃島漁師によって江戸市中に魚介が流通されることとなる。
中でも白魚は家康の好物でもあり、佃島の漁師が白魚を徳川将軍家に献上する慣例が現在も続く。
かつての漁師町の名残りで残っているのが佃湊の船溜まりで、今も舟が行き来するのを遭遇できる。
佃島の道筋は江戸時代からほとんど変わっておらず、近代的人工的な区画になっていないのが特徴で、道幅も細い。
そして、曲がりくねった路地裏が張りめぐらされている。
背後に大川端リバーシティの再開発マンション群が見える中で、戦前からの古い漁師の家が今でも数軒残っている。
その戸口は漁業の準備がしやすいように広く、井戸も路地だけでなく各戸に設けられている。
ところで、将軍家に献上する白魚と一緒に大量の雑魚が獲れると、佃島漁師はそれらを塩と醤油で煮詰めて常備食・保存食とした。
これが佃煮の始まりで、やがて安価で長期保存が効くということで江戸市中に流通するようになる。
現在も佃島には佃煮の老舗が数軒残っており、そのうちの天安は天保8年(1837)に創業、その店構えは出桁造りに屋根付き看板、暖簾という江戸時代からの名残りを見せている。
私も撮影の帰りに佃煮を買った。
名物はうなぎの佃煮だが、値段が他よりも飛び抜けている。
名前の通り、本社は大阪にある海事の神様「住吉大社」で、家康の呼びかけで移住してきた佃村の漁師たちの手で建立したものだ。
(2022.01.31)